高校時代、私はいつも、窓から見える景色を見ながら、歌詞を書いたり、ノートに落書きをしたり、夢見がちな女子高生をやっていた。
川の向こうには男子校があって、こちら側には女子高が2つ。休み時間になると、男子校からキラキラと何か合図のようなものが送られてくることもあった。
そして、こうして思い出してみると、胸がきゅんと音を立てる。今夜は急に、あの場所を思い出した。
そう。
窓の外には、こんな景色が見えていた。
目を閉じると、川面に映る光の反射や、
木々の揺れる様子や、
歌った賛美歌や、
学食のにおい、
先生の声が響く静かな教室。
教室や廊下のざわめきが今でも聞こえてくる。
こうして書き出してみると、人は五感で記憶をつくっていくことが良くわかる。
仙台は、私が15歳から暮らした街。「私」という人を作り上げた街。
記憶の中で大きなポジションをしめている。母の重圧から逃れて、一人の人として生きるということを覚えた場所であり、人を初めて愛した場所であり、私という根幹を作った場所のだ。
あの頃の私に会うことが出来たなら、私はワタシになんて声をかけるだろう?
あの頃のワタシは、今の私をみたらなんて言うかな?
私たちは良い同志に、仲良しになれるかな?
あの頃のワタシに言ってあげたい言葉は沢山あるけれど、私は、あの頃のワタシが大好きだから、きっと、傍に寄り添うように静かにワタシを見守りたいとも思うのだ。
ピュアで、真っ直ぐで揺ぎないワタシを。
真夜中。もう一つ思い出したことがある。
委員長をつとめた卒業アルバムのあとがきにこんなことを書いたんだった。
「これから先、立ち止まったり、道に迷うようなことがあったら、このアルバムを開いて欲しいのです。そこには、懸命に生きた18歳のあなたが生きているから。そして、18歳のあなたが、あなたの背中をそっと押してくれるはずです。」と。
18歳のワタシも、今の私も。
私はワタシ。
醜いことも、酷い出来事も、すべてを越えて今がある。
小さい頃のワタシは、大人を毛嫌いしていたし、大人を蔑んでもいたけれど、沢山のカッコイイ大人たちの手を借りてここまで、転びながらも歩いてきた。
そうだ。
昔のワタシに出会ったらこう伝えよう。
「どうしてこんな人の子どもに生まれて来たんだろう、って思うことは、これからもいっぱいあるけどさ、いっぱい折れそうにもなるけどさ、逞しく生きているよ」と。
昔と今が交差した、
2018年のこどもの日:記